原因不明の体調不良に苦しんでいた当時、私は体だけでなく、メンタル的な不調にも苦しんでいました。
何かを考えようとすると、何かを感じると、脳内がオーバーヒートを起こすというか、グチャグチャと整理が付かないような状態になります。
ところが、真剣に自身の体調改善を祈ることで、不思議と頭の中は落ち着き、体も楽になっていくのでした。
私は「これはいい…!」と思ったのです。
もうなかなか打つ手がない状況だったので、どんな胡散臭い行為でも、少しでも体の状態が楽になるのであれば、実践する価値は十分でした。ましてや、祈ること自体、タダですし、何度繰り返したところで、薬のように副作用が出るわけでもありません。
思い返すと、自分はこれまで、何か肉体的、精神的に厳しい状態になるたびに、「どうにかするぞ!、元気になれ!、自分は平気だ!」といったノリで、局面、局面に対処してきました。
例えるなら、「もう一押しだ!」と胃袋に栄養ドリンクを流し込むような感覚で、疲労、苦痛、激情を麻痺させるような対処をしてきたように思います。
このやり方は、実に即効性があり、うまくいくと思います。
いや少なくとも、短期的には。
ただし、何らかのダメージをないものとして扱っているだけで、ダメージはダメージとして、蓄積されていたのです。
いずれにせよ、自覚の範疇では平気でした。脳内では、そうしたストレスを「ないもの」として、処理を施しているからです。
ところが、本当は?
ダメージはちゃんと「ある」のです。
このように極度に意識化した脳は、数あるストレスをものともしません。つーか、気にしません。しかし、いつかは限界が来ます。
頭では平気なつもりでも、体が音を上げるのです。
「あれ、おかしい。なぜ、こんなにシンドイの?自分。」
そうして、まもなく頭の方にも異変が出てくるでしょう。脳も、広い意味では、体の一部ですから、体に根深いダメージが生まれると、脳の方にも影響が及んでくるのです。
そうして、頭では平気なつもりでも、思考プロセスが順調に進まなくなります。脳が正常時のように活動できなくなります。
こうした行き過ぎた身体の状況を中和する手段として、有効なのが、まさに「祈り」ということになるんじゃないでしょうか。
祈りの思考とは、「どうか…お願いします。」ということです。
決して「どうにかするぞ!」ではありません。
ある意味…他力本願なのです。
自分の体調を回復させるのに、果たして、他力で大丈夫か?と感じるかもしれませんが、ここが祈りの「強み」だと思います。
神か、仏か、あるいは、得体の知れない大きな力か…、少なくとも自分ではない、未知数で偉大な対象に対して、祈りを捧げる。
この思考パターンは、「おれ自身が何とかしてやるぞ!」とはかなり性質の異なるものだと思います。
「おれ自身が自分をどうにかする。」
高度に意識化した現代社会では、特にはまりやすい落とし穴かもしれません。
自分は、自らの意識で体の全てをコントロールしていると思い過ぎているのかもしれません。
実際のところ、日頃、「あーだ、こーだ」考えているのは、所詮、我々の脳の「意識担当部署」に過ぎません。
残念ながら、脳には、「私が…」という意識以外の要素もたくさん含まれているのです。
例えば、心臓の動くスピード、食欲、発汗、体温…それらは、「あなた自身」が考えて決定していることでしょうか?
果たして、「私」という意識は、私自身の体に対して、何ができるのか?
こう考えると、意外に、私は自分自身の体に対して、無力なのかもしれません。
少なくとも、「私」という「意識」だけで、体の全てを制御、統制するのは、人体の構造上、設計上、難しいことのようです。
だからこそ、祈る(=他力本願)という行為が、出口の見えない体の不調を和らげる力を秘めているのではないかと感じたのです。
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