自分は基本的に神仏には祈らない性分でした。
正月初詣に行っても、ものすごい人ごみを見る度に、「いやー、こんな大人数のお願い、神さんも聞いてられないだろー。」なーんて考えてました。
少なくとも、仮に自分が神の立場だったら、到底こんな大量の要求(欲求)を処理していられないと。いや、そもそもがんばって全員の願いを叶えようとしても、絶対どこかで利害や運命の衝突が起きて却下しなきゃいけない案件が出てくるだろうと。
とはいえ、初詣の時ぐらいは、親しい人の幸運を祈願するとか、「今年は自分はこんな年にします!」という決意表明のような意味合いで、手を合わせていたものです。
それでも、「自分自身のこと」を何か神仏に祈願するということは、年間を通してもほぼ皆無の状況でした。
ところがです。
もうずいぶん過去の出来事になりましたが、今から4年以上前の頃。
体も精神もどうもこうも言うことを聞かなくなり、身体がぐちゃぐちゃな状態にあった時期がありました。
→当時の症状全般
どれだけ休息しても、どれだけやる気を奮い立たせても、どれだけ苦痛を忘れようとしても、改善は見られず八方塞がり。
医師の診察を受けても、「健康体」と認定されるだけで、勝手に私自身は絶不調・虫の息状態にありました。
そして、万策が尽きた…。
どうしようもなく、もうやれることもなく、絶命という禁断の「逃避」もちらつくようになった頃、私はある瞬間、何を思ったか祈り始めたのでした。
「よし、祈ろう」と決心したわけでもなく、何という考えもなく、ただひたすら、すがるように祈り始めたのでした。ワンルームのあの部屋で、まさに手を合わせ、一途に…。
我ながら、実に意外な行為でした。それだけ追い込まれた状態にあったのでしょうが、元々祈らないはずの自分でも、然るべき状況がくれば、祈るしかないんだなと痛感したのでした。
あの時は、他の誰でもなく純粋に自分のために、自分自身の肉体、精神の復調だけを夢中で祈りました。ひたすら祈りに没頭しました。
話の肝はココからです。
祈った後、私には、これまでにない変化が感じられたのです。
まず、何かに見られてるという感覚が生じたこと。(良い意味で)
そして、幾分、心身の不調が和らいだということです。
ぶっちゃけて言うと、祈ったら、(一時的であれ)ちょっと体が楽になったのです。
何故か??
いやいや、私は、このブログで何かの布教活動をしようってことは、一切ありません。
ここはむしろ、科学的で、メディカルなブログです。
つまり、なぜ祈って体調がマシになったのかということを、人体の仕組みに基づいて、科学的に考えていきたいと思います。
あら、神仏と科学を混ぜちゃ、ちょっと禁断の領域かしら。
まぁいいや、しっかり混ぜます。
続きは…また別記事で触れましょう。
→続き
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