誰もが息を潜めることはあると思います。
かくれんぼの最中、押入れの中でじっと息を潜めて、鬼が通り過ぎるのを待つ…。
そんな戯れの一場面を上げるまでもなく、もっともっと身近な場面で私達は、息を潜めているのではないでしょうか。気付くこともなく、知らず知らずのうちに…。
逆に、息が荒くなる時を考えてみると…、もちろん運動時に息は上がりますが、感情が高ぶったり、興奮したりする時も、人間であれば、自ずと息が上がることと思います。もちろん個人差はあるでしょうけど。
当然、呼吸は、意識せずに行われるものですが、一方、意図的に軟口蓋を引き上げることで、強制的に呼吸を遮断することもできます。いわゆる、「息を止める」という行為です。
息を潜めるという定義自体は、必ずしも呼吸の完全な遮断を意味しているわけではありませんが、いずれにせよ、「限りなく静かな呼吸を試みている」ということにはなるでしょう。
ですから、全くリラックスした自然体の呼吸に比べると、幾分は、口蓋周囲の筋肉や、いわゆる呼吸筋群に対して、不自然な緊張が生じている考えられます。
ですから、むやみやたらに息を潜めるということは、何らかの事情で、四六時中息を潜めるということは、 上述した筋群に、歪な緊張がかかり続け、異様な身体の使い方を自らに浸透させてしまいます。それは、言い換えると、まともな呼吸の仕方がわからなくなってしまうリスクがあるということです。
まともでない呼吸を、あなたが自身の身体に覚えさせてしまった…、脳、意識の進化した人間のなせる芸当…?なんという皮肉な芸当でありましょうか…。
ですが、人間であるならば、そうしたリスクさえも想定した上で、自らの健康を持続させていきたいところです。
呼吸のような、何気ない歯車の食い違いから、 行く行くは出口のない不定愁訴に囚われてしまう…そうした危険性を先人たちも気付いていたのかもしれません。世界には、祈りがあり、瞑想があり、ヨガのような呼吸をベースとした身体のメンテナンス法があり、今日まで廃れることもなく、脈々と受け継がれてきました。
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