自分の住み良い世界で生きるための方法は、いくつかあります。
一つは、住み良い(と思われる)世界へ実際に移り住むこと。そして、もう一つは、自らの身体的コンディションを最適化して、従来の環境をより良い世界として認知できるよう仕向けることです。
仮に、各々の人間に、とある設計図が存在するとすれば、その設計図に準じた肉体が認識する世界こそ、その個体にとって最も快適な世界になります。逆に、その設計図から大きく乖離した肉体が認知する世界は、もはやドロドロとした息苦しい世界となることでしょう。
第三者が「まさか、そんな世界であるはずがない」と首をかしげるのも致し方ないことです。なぜなら、第三者からでは、決してそのドロドロとした淀んだ世界を、直に見つめることはできないからです。
各々の生命、各々の世界。
国産大豆の納豆を久々食べた。夜空に吠えそうな程うまい
— のらうさぎさん (@UsagiNora) 2月 11, 2012
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