私は顎関節症の治療のため、特定の医療機関に通うことはありませんでしたが、通い続けた「場所」はありました。
国会図書館です。
日曜は休館なので、主に仕事が休みの土曜日、愛車(自転車)を飛ばして、資料を検索、閲覧しに行きました。
全ての書籍が集う場所というだけのことはあり、様々な方面の情報に触れることができました。
常時気になる不快感、あの時気分が良くなった時の感覚、違和感を覚える身体の各部位のこと、そして、インターネットで目星をつけた詳細を掘り下げたい情報…自分のあらゆる実体験を、資料で辿り、絞込み、できる範囲で検証しました。自分の経験を、どんどん理論で裏をとっていったのです。
多岐にわたる自分の症状を、他人に話しても、5分も経てば忘れ去られている。あるいは、相手方の都合で、情報が取捨選択されてしまう。でも、自分は自身の症状は全て、常に頭の中に入っている。
ならば、自ら納得いくまで分析していくのが一番成果が上がるだろうと踏んだのですが、その試みは、まさに「ズバリ」ハマってくれました。
何かを学習する上で、経験が先立っているというのは、非常に効率が良いものだと感じました。どこをしっかり注目すべきか、その強弱が瞬時に判断できるからです。
さらに、一連の体験に複数の書物の情報をはめ込むことで、書籍単体では得られない発展的な解釈を紡ぎ出すことができるのです。
通い始めた当初は、今に比べると、まだまだ健康状態は不安定だったように思います。もちろんメンタルも含めてです。
国会周辺の警官に目的地を尋ねられ、喉元まで上がってきた悪態をどうにか飲み込んだり、図書館に音楽プレーヤーを持ち込まないよう指摘してくれた係員を無言で睨みつけたり、決して穏やかではない体調を抱えながら、閉館間近まで、あれこれ資料を読みふけっていたものです。
図書館に行く度に症状改善のヒント=確かな手応えを得ることができたので、通った回数はかれこれ10回以上になってしまいました。
「ちょっとした人間不信」と「ちょっとした自意識過剰」…本来は、はた迷惑でしかないであろう自分の性質の一部分ですが、この「顎関節症、不定愁訴の克服」という点においては、多いに役立った気がします。
なぜなら、国会図書館に通い詰めるという自分の行動は、「他人は当てにできそうもない」という思いと、「自分なら何か掴めるはず」という思いに支えられていたと感じるからです。
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